札幌地方裁判所岩見沢支部 昭和40年(わ)177号 判決 1969年5月06日
主文
被告人らはいずれも無罪。
理由
第一本件公訴事実は、
「被告人崇本良順は、全日本自由労働組合夕張支部執行委員長、被告人小野十次郎は、同支部書記長であるところ、
一、被告人崇本良順は昭和四〇年六月一九日午後零時四〇分頃、夕張市本町五丁目夕張公共職業安定所二階所長室において、同所長太田誠一から右安定所構内より即時退去するよう要求されたのにかかわらず同所長室に居すわり、もつて故なく右太田の看守する建造物から退去せず、
二、被告人小野十次郎は、右同日午後四時一八分頃、右夕張公共職業安定所二階所長室において、右崇本が不退去罪の現行犯人として夕張警察署勤務警部補高山智二、巡査部長吉田喜代美に逮捕されたのち直ちに右両名等によつて同警察署に護送され始めるや、約二〇名の前記組合員と共謀のうえ、右安定所の庭や同安定所前の道路上において、右崇本護送の職務を執行中の前記高山および吉田両名を取り囲み、同人等の身体を押し又は引つ張るなどし、さらに右同様職務を執行中の巡査今野征治の右背部に体当りするなどの暴行を加え、もつて同人等の公務の執行を妨害し
たものである。」というのである。
第二当裁判所が認定した事実
一本件事件の背景
(1) 本件発生当時、被告人崇本は、夕張公共職業安定所(以下単に夕張職安という。)に失業対策事業(以下単に失対事業という。)紹介適格者として登録されている失業者を主体として組織される全日本自由労働組合の夕張支部(以下単に夕張自労または、組合という。)執行委員長、被告人小野は同支部書記長の地位にあつた。
(2) ところで夕張職安は、夕張市が緊急失業対策法に基づき実施している失対事業に就労すべき労働者を、いわゆる長期紹介方式により同市に紹介する業務を行なつている。この紹介方式は、かつて失対事業に就労すべき労働者の紹介を事業施行日ごとに行なうという紹介事務の方式(以下これを日々紹介方式という。)を改めたもので、事業主体が立案した具体的な事業実施計画(工程表ともいうべきもので、労働大臣の承認が要件とされている。)に合わせ、職安が事業主体と協議の上、失対事業紹介適格者の個人別の、一暦月を単位とする紹介予定計画を前月末までに作成し、当該月の最初の事業施行日に職安へ出頭した右適格者に対し個人別の紹介予定票を交付することによつて、一箇月前の紹介業務を事務手続上一括して行なうものである。右紹介予定票には、失対事業に就労すべき日と、職安へ出頭すべき日とがそれぞれ指定され、前者については作業現場と作業種別が具体的に記載されているので、各労働者は改めて紹介を受けないでも右記載に従い就労することが予定され、後者についてはその日に民間企業等一般の常備雇用先への紹介を受けるかあるいはその日を職業相談のための日とされている。職安へ出頭すべき日は一箇月に四日程あるのが通常であるが、これは事業主体たる地方公共団体において失対事業実施のため国庫から補助を受ける費用が、各適格者につき一箇月に二二日を限度とされているという予算上の制約によるものである。すなわち、一箇月三〇日のうち日曜日、国民の祝日を除き、右二二日を超える四日程度の日は右の制約上各適格者を失対事業に就労させることができないため、この日を職安への出頭日と定めたものである。この労働者を就労させることのできない日(いわゆるあぶれ日)は、各適格者ごとに別異に定めることは可能であつたが、夕張市においては、昭和三九年三月まで同市が国庫の補助を受けて行なう失対事業の外に市独自の予算をもつて行なういわゆる単費事業たる失対事業を実施していた(その後財政難を理由に打ち切られた。)関係から、その後においても全適格者につき同一の日をこれに当てる取扱いがされている。また、夕張市およびその周辺地域は雇用状勢が極めて劣悪であつて、あぶれ日に他の企業等に就労する機会がほとんど期待できないため、適格者はあぶれ日には日雇労働者失業保険金の給付を受けて生活しているのが例である。このようにいわゆるあぶれ日であつて失対事業に就労できず失業保険金の支給を受ける日を組合員らは非番日と呼んでいたが、先に述べた、夕張市の単費事業が従来金曜日にあてられていた関係から、右事業が打ち切られた後も夕張職安から指定を受ける非番日は金曜日であることが多かつた。
(3) 組合は、昭和四〇年六月一七日夕張市との団体交渉において、市に対し、非番日を金曜日に設定されると、失対賃金を受けられない日が中一日(土曜日)をおいて二日続き、これでは収入が週の前半に片寄り生活が苦しいから、翌月以降は非番日を週の中頃、すなわち、水曜日か木曜日に設定するよう変更してほしい、また、当月最後の非番日は紹介予定票によれば二五日(金曜日)になつているが、この日を組合行事の関係上二三日(水曜日)に振り替えてほしい、との申入れをした。市の失対事業職務責任者である佐藤豊勝労政部長は、従来労働者の要望を容れて非番日を振り替えた事例が少なからず存在したことや、非番日を右のとおり振り替えても事業遂行上特別支障が生ずるおそれもなかつたことから、組合の右申入れに応じるつもりでいた。ところが、翌日一八日、市が事務手続の調整上夕張職安に対し、組合から右のような申入れがされている旨伝えたところ、予期に反し同職安生出業務課長から強い反対にあつた。当時、長期紹介方式を円滑に運用するという理由から、後記の労働省通達(職発第八四九号)の趣旨に従い非番日の設定、振り替えは事業主体と職安との合意により決定する旨の協定があり、市が単独でこれらを決定できない実情にあつたので、夕張職安の反対から組合の前記申入れは実現が困難となつた。組合ではこれを伝え聞いたので、被告人小野において夕張職安に電話で理由をただしたところ、事業施行日の振り替えは、「降雨、降雪その他やむを得ない理由による」場合以外には認めない旨の労働省通達があり、本件は労働者側の事情によるものであるからこれに該当しないというものであつた。右の市との交渉の後、組合としてはバスの配車の都合がつかなかつたため、二三日の組合行事に参加が不可能で非番日の振り替えの必要はなくなつていたが、なお、翌月からの非番日の設定と右の職安側の態度について職安と直接交渉する必要を感じ、被告人崇本ら組合役員三名を職安に出向かせ、どうして、組合の要望を職安が拒否するのかその理由を明らかにさせ、かつ翌月以降の非番日の変更について交渉させることにした。
二夕張職安における被告人崇本らの行動
(1) 被告人崇本らは、当日午前九時三〇分頃夕張職安所長室に至り、太田所長に対し、先づ非番日の振り替えについて同職安が拒否した理由を明らかにするよう要求したところ、同所長はすでに報告をうけて組合側の要求が二五日の非番日を二三日に振り替えることのみにあるものと早合点しており労働省通達(「失業者就労事業運営に関する事業主体、公共職業安定所の連絡調整について」と題する昭和三八年一〇月二三日付通達職発第八四九号)をあげ、前記生出業務課長と同じ理由で、組合の非番日振り替えの申入れを拒否したのは正当であるとし、もつぱら、通達の字句の説明によつて組合側に反ばくした(この頃、生出課長および田中紹介第二係長が所長室に入つて来て被告人崇本らとの交渉に加わつた。)。被告人崇本らは、同所長の態度が従来の同職安における取扱と大いに異なるとして激しく非難し、なおも非番日の振り替えを認めないことが不当であることを執ように主張し続ける一方、振り替えに伴い職安事務がふくそうする事態が生じるのであれば組合としてもこれを緩和する方法があるし、出来るだけ混乱が生じないよう職安に協力するなどの方法もあることを主張してやまなかつた。しかし、太田所長は、夕張職安へ着任以来(同所長は同年五月一一日、生出課長は同年四月八日着任)組合の団結が強固であり活動が活発であるため、市の行なう失対事業や夕張職安の紹介業務等がともすれば組合の意向に沿つて運営されがちであることを聞き知つて快く思つていなかつたところ、たまたま同年五月二五日、同職安会議室で太田所長ら職安幹部が組合役員ら二十数名と交渉した際けん騒状態で終始したことに強い不満を抱いていたため、組合との折衝には強い態度を堅持しようと考えていた折りでもあつたので、被告人崇本らの主張を全く認めようとせず、かえつて従来の慣行如何にかかわらず自分は法規に従つてやるだけであるとの態度を示し、かたくなに組合の提案を一方的に拒否するのみであつた。
(2) そればかりではなく、この機会に前述のそれまで組合に押されがちであつた職安側の態度を改めようと考え、逆に職安側の組合側に対する提案として同席していた生出課長に命じて、組合側役員に対し自ら交渉ルールと称して四項日にわたる事項を示しこれを承認するよう要求した。この提案というのは、
① 話し合いの項目はあらかじめ職安に明示しておくこと、
② 話し合いの時間は大体一時間以内とすること、
③ 話し合いに参加する組合側の人員は四名以内とすること、
④ 話し合いの過程で多数の組合員が夕張職安庁舎内または構内に入り示威行動をとる場合には話し合いを打ち切ること、
というのであつた。ところが、右提案は組合に対し事前に連絡がなく、右席上で突如として出されたことや、内容的にも従来の組合と夕張職安との交渉形態に比し組合側の姿勢の大幅な制限を意味するものであつたため、出席した組合役員らの強い反発を買い、このような提案をする所長の態度を強く非難する等事態が紛糾し始め、右提案後は、非番日の問題を差し置いて、ほとんど交渉ルールの提案方法、内容の当否についてやりとりが続けられた。
(3) 午後零時一〇分頃、太田所長は双方の主張が平行線をたどるばかりで進展せず、職員の退庁時間も迫つてきた(当日は土曜日)ので譲歩案を出すとして一たん休憩を宣して、同職安幹部と所長室隣の庶務課室で協議し、午後零時二〇分頃、再び所長室に入つた。被告人崇本らは、この前後の時間に、もう一つの組合側の要望事項である翌月以降の非番日を週の中頃に設定してほしい旨を前述した理由を付して太田所長ら同職安幹部に対しさらに要請したところ、同所長らはこれに一顧も与えず、右の四項日の正案の案文作成にとりかかり間もなく次のような提案をした。すなわち、
① 非番日の振り替えは事業主体の都合により真にやむを得ない場合にのみ行なわれるものであつて、組合および労働者の要求によつてはできない。
② 業務上の話し合いについては、原則として、業務課長段階で進められたい。
③ 所長との話し合いについては業務課長との事務折衝により、話し合いの項目、日時(所長の都合を勘案すること)、話し合いの人員(最少限度とすること)を決めてからにしてほしい。
④ 所長、課長が不在の時でも六月一一日のような事態を繰り返さない。
⑤ 以上四点を承認するならば非番日の振り替えを、今後の前例としない条件で今回に限り了承する。
(なお、右④の六月一一日の事態というのは、太田所長および生出業務課長が不在の際、夕張職安において被告人小野が佐々木某、就職促進指導官に対し暴行、脅迫的言動をとつたとの職安側の主張を意味するものである。)
しかし、被告人崇本らは交渉ルールの問題は別の機会に改めて協議すべきであつて、非番日の設定、振り替え問題とは切り離すべきであるとして、右「修正案」を全面的に拒否し組合側の要請について交渉を続けるよう要求した。ところが、太田所長は、自らの提案を組合側にのませることに急で、組合側の要請については、これを全く無視し、午後零時三〇分過ぎ頃、執務時間が終了したとして交渉を打ち切る旨一方的に宣言し、所長室を出ようとした。この際、被告人崇本が「所長が逃げるんならピケを張る。」と叫んですわつていた席から立ち上つて同所長の前へ立ちふさがろうとしたが、生出課長らに制止され、再び所長室内のソフアに引き下つたので、同所長は庶務課の部屋へ退出した。その後被告人崇本は、前記組合役員二名および午前一一時頃から徐徐に数を増した組合員七、八名と共に同所長室内の応接セットに居すわり続けていたため、午後零時四〇分頃、太田所長は所長室に入り、同被告人らに対し、庁舎管理上支障があるので即時退去を命ずる旨口頭で三回繰り返し、その後午後三時頃までの間再三にわたり生出課長その他の職員を通じ同趣旨の退去を要求したが、同被告人らは所長らの交渉の再開を主張してこれに応じなかつた。
(4) その後太田所長は宿直室に入つたまま、被告人崇本ほか組合側役員の前には全然顔を出さず、同被告人らを同職安から強制的に排除しようと決意し、午後三時一五分頃、夕張警察署に警官隊の出動を要請したところ、午後三時五五分頃、警官隊が到着し、同署警備課長鈴木昭吾から数回退去勧告および逮捕の警告が発せられた後、被告人崇本は午後四時一八分頃、同署警部補高山智二、巡査部長吉田喜代美の両名によつて不退去罪の現行犯人として逮捕された。
三逮捕前後における職安庁舎外の状況
(1) 同日午後三時頃、失対事業に就労していた組合員らが、作業を終えるや組合役員らと夕張職安との交渉のなりゆきを心配して三々五々同職安付近に参集し始めていたが、前記のとおり警官隊が出動してきた午後三時五五分頃、その教はおよそ一〇〇名程に達しており、そのうち六〇名程は同職安一階の労務者待合室に入り、残る四〇名程は同職安構内およびその付近の道路上に散らばつていた。そして被告人小野は同職安正門の北方一五、六メートル離れた、市民会館ホール横の約1.4メートル程土盛りをした場所に駐車していた組合宣伝カー付近において、同車備付のマイクを使用し、警官隊が組合と夕張職安との団体交渉に不当に介入したとして激しい口調で非難し、一般市民に対し、警察を弾劾する演説を行なつていた。
(2) そうするうち、同職安二階所長室で被告人崇本が逮捕され、午後四時二〇分頃、前記高山、吉田両名が同被告人の両腕を抱えて、同職安東南側の通用口から外へ出て、正門の外数メートルの位置に停車待機中の護送車へ同被告人を連行しようとして五、六名の制服警官の授護を受けながら正門へ向け足早に近づいてきたところ、正門付近にたむろしていた女性を含む組合員十教名が、突然「不当逮捕だ。」「委員長をどこへ連れて行く。」「委員長を返せ。」等と口々に叫びながら、正門の数メートル内側まで駆け寄つて来て高山、吉田らの前方に立ちふさがり互いに体を寄せ合つてその進行を阻止しようとして押し合い、そのうち四、五名の組合員は右高山の衣服にすがりつきあるいは腕を引つ張るなどして抗議した。高山、吉田および制服警官はこれら組合員を排除しつつ正門を抜け出ようとしたが、抵抗が予想外に強く、容易に組合員の囲みを突破できなかつた。そこで高山らは、職安二階所長室、庶務課室等にいた他の制服警官に応援を求める一方、ひとまず職安裏手方向に引き返したが、間もなく援護の制服警官が一〇名前後に増加したので再び正門へ向つた。
(3) 正門手前付近まで来ると前回よりやや数を増した組合員(二十数名)に再び進路をはばまれ押し返されそうになつたが、援護の制服警官が組合員の中に割つて入り、公務執行妨害罪になる旨口々に警告を発しながらその排除活動を始めた。その頃、小ぜり合いを続ける右の一団とやや離れて他の組合員や一般市民がこれを傍観していたが、その中から夕張地区労働組合協議会(以下地区労という。)の斉藤議長が、右一団の中へ、「待て、待て。」といいながら組合員らをかき分けるようにして入つてきたのを見て、被告人崇本が、警官隊と押し合つていた組合員らに対し、「地区労の議長がきてくれたから待て。」とか「やめろ、やめろ。」等といつて制止した。しかし、組合員は年配の女性が多くしかも興奮状態にあり夢中で抗議したり押し合つたりしていたため抵抗活動を止めようとせず、同地区労議長もあきらめてもみ合う一団の外へ引き返した。そうこうするうち高山らが押し合いを止めて一、二歩体を引いたところ、阻止していた組合員らとの間に幾分空間ができ、そこへ制服警官が素早く割り込んで組合員らをかき分け高山らの進路を作るため二列に向い合うようにして並んだので、この間を高山らが徐徐に前進して護送車後部までたどりつき、午後四時三〇分頃、同車後部ドアから同被告人を押し入れるようにして乗車させ、直ちに同被告人を夕張警察署へ連行した。
以上の事実は、次に掲げる証拠を総合して認めることができる。<証拠略>
第三被告人崇本の無罪について
本件事件の経過は、右に述べたとおりであるが、当裁判所は、前記太田職安所長のした退去命令が公正な権限の行使と認められず、したがつて、被告人崇本の本件の不退去について、犯罪が成立しないと思料するので、以下、順次この点について説明する。
右に認定したように、太田所長が夕張職安に着任した昭和四〇年五月以前においては、組合活動が活発であり夕張の失対事業その他の職安行政のうち組合、組合員に関係する部分の多くは、組合と職安側の相互の話合い、交渉により解決されることが多く、その際組合側の要求の七、八割が容れられてきたものと認められるが、本件の審理の結果によると前述のように太田所長はこのような従来の組合と職安の行き方を快く思わず、職安行政は組合の要請、意向いかんにかかわらず、法令と通達に依拠し、行政の任に当たる者の責任において一方的に行なうべきであるとの考えから、職安職員を指導し、自分もそのような態度を示していたところ、たまたま、失対事業の事業主体である夕張市から昭和四〇年六月二五日の非番日を同月二三日に振り替えるについての同意と翌月以降の非番日を金曜日から週の中頃に変更してほしい旨の申入れをうけ、これらがいずれも組合の要望としてされていることを知り、右の事項はどちらも組合の要望によつて動かされるべきでない旨確信し、事業主体に対し強硬に右要望を拒否するよう回答したものと認めざるをえない。これに対して組合側は書記長であつた被告人小野はじめ幹部が、前任地である網走において、組合員を排除するために職安に警察官を導入したと聞き知つていた太田所長に対し、着任当初において、夕張自労の威力を示し、以後の職安との交渉において主導的な立場を確立しようと考えて、右の非番日の振り替え、変更の問題を契機として六月一九日の折衝に臨んだことは疑いない。前掲の証拠からこのような事件発生前における状況がうかがえるわけであるが、このことを前提になお仔細に事件の経緯を検討してみる。
前掲の各証拠によると次の事実を認めることができる。すなわち、1、太田所長は、夕張職安に着任する以前から夕張自労がその団結力、行動力において全国有数のものであり、日常活発な運動をしていることを十分熟知していたこと、そして、前述のように、夕張における組合に関係する失対事業、その他の職安行政の多くが組合との交渉により、組合側の要望を容れて運営されがちであり、これが本来あるべき姿ではなく是正しなければならないと考えていたこと、2、右の事実から、夕張市のした六月一七日の非番日振り替え等の申入れを拒否するにおいては、組合側がこれについて必ず職安に交渉にくるであろうことは十分に予測したうえで、前述のような理由に対して、夕張市を通じての組合の要望を拒否したこと、3、前述のように職安側は本件事件当日、組合との交渉の過程において、交渉のルールと称する四項日の反対提案をし、この四項目はこの日より前に作成されていたものと認められるが、右の1、2、ような事実関係からは組合が非番日の振り替え等の問題で遅くない機会に当然交渉にくることの予想のもとに、その交渉の際、組合側の従来の交渉態度、とくに、交渉の人数、時間等なんらの制約もなかつたのを規制する目的から右四項目は作成されたものであること。しかし、竹平前所長時代からの組合との交渉の経過、夕張自労が前述のとおり強力な組合であり、突然組合側になんらの検討の時間を与えることもなく(第九回公判調書中証人生出の供述部分のうち六月一九日より数日前に右の四項日を組合に通告してある旨の部分は信用できない。)、右のような従来の組合と夕張職安との交渉の実態に比し、組合側に大幅な譲歩を要求する提案をしても到底これが組合によつて受け容れられる見込みのないことは十分予測できたこと、以上の各事実を認めることができるが、これらの事実を総合すると、組合側が非番日の振り替え等の問題で職安に交渉にきた際に、右の四項目を提案することによつて、おだやかに交渉が進められるということは当時の客観的な状況から全く考えられず、むしろ、職安側の強い態度をめぐつて相当の紛糾が生じるであろうことは、太田所長以下職安側の関係者のひとしく予測できた事柄であると認めるのが相当である。そして、右の四項目が提案されるまでの前述のような事件当日の組合側被告人崇本らの太田所長との交渉の経過をみると、第五ないし、七回公判調書中証人太田誠一の各供述部分により、職安行政の一線にあつて、その業務に関連した法令、通達については十分精通していたものと認められる太田所長は、六月二五日の非番日を同月二三日に振り替えることのできない理由として、労働省昭和三八年一〇月二三日付職発第八四九号通達をあげ、「事業施行日の変更は、降雨、降雪その他止むを得ない理由により作業の実施が困難である」とき以外認められない旨説明している。しかし、右の通達は、その文言の示すとおり長期紹介方式実施に伴う事業主体、職安間の事務連絡の方法を具体的、項目別に明確化したものにすぎず、非番日若しくは事業施行日等の振り替え自体について職安に指導監督を命じたものではない。ただ、多くの事業主体において、失業対策事業運営規則中に「事業施行日のうち、事業主管課が、降雨、降雪、その他やむをえない理由により、作業の実施が困難であると認めた日は事業を施行しない。」と規定していることにかんがみ、事業主体から右の規定に基づき特定の日の事業施行につき中止または延期の通告があつた場合に、職安側に長期紹介計画をこれに応じて調整すべき旨指示したものにすぎない。太田所長がその立場上この通達の趣旨、文言を理解していないはずはないのであるから、同所長が非番日の振り替えを拒否する理由として前記通達を挙げたことは、組合の申入れを拒否する単なる形式的な理由を示したにすぎないものと認められる。ことに、前記の事業施行日変更に関する条項は、いわゆるあぶれ日について輪番制を採用しているか、一せい非番日制を採用しているかにかかわらず存置されているのが例であるから(しかも、全国的にみると前者の方式が圧倒的に多いことが受命裁判官に対する証人市倉誠の尋問調書により認められる)、右条項の趣旨とするところは、就労日数の減少を招来しがちな事業施行日の変更を、事業主体がし意的に行なわないよう、その要件を定めて拘束したところにあり、むしろ失対事業に就労する労働者の利益を保護する目的からおかれたものとみるべきであるから、これを逆用して、非番日の設定、振り替えという本来労働条件に関する事項につき、労働者の要望を排除する方向で運用しようとした太田所長の態度は理解し難いことであり、組合の要望によつては、既定の事項の変更をしないとする態度を示したものと解さざるをえない。このような「降雨、降雪」という通達についてのやりとりの間に太田所長は、前述の四項目を提案し、この四項目について当初の予想どおり事態が紛糾したまま、交渉の過程において、翌月以降の非番日の設定についての申入れには一顧も与えず、交渉を打ち切つたことは前述のとおりである。右に述べたように、当日の交渉により組合の威力を示し、今後の職安との交渉において主導的な立場を確立しようとして夕張職安に出向き所長室に入つた被告人崇本ら組合役員の勢い込んだ態度にも全く問題がないとはいえないが、その人数は崇本外組合役員二名という小人数であり、交渉の過程において同被告人からやや粗雑な言辞が発せられたことは、証拠上認められるけれども、組合側としては一応話合いを平穏に進行させようとしていたと認めるのが相当であるに対し、太田所長は、右述のような態度をもつて交渉に望んだものであるが、このような太田所長の態度と第四回公判調書中証人小林孝太郎、第一三回公判調書中証人坂上三男の各供述部分、証人鈴木昭吾の当公判廷における供述によつて認めることのできる次の事実、すなわち、夕張職安は太田所長の着任以来夕張警察署警備課との連携を強め、同課においては夕張自労に関する情報特に職安における組合の動静についての情報収集を活発にしていたが、本件当日組合と職安の交渉がはじまつて間もない午前一〇時頃には職安から同署警備課に対しその状況が報告され、その頃同署においては職安への出動を予測して署員(少なくとも警備課員)の待機が指示されていること、<反証排斥略>および証人鈴木昭吾、同河原武雄、被告人崇本の当公判廷における各供述によつて認めることのできる夕張警察署員が夕張職安に出動した午後四時頃、被告人崇本は同署の河原刑事課長を通じて、当日の警察側の総指揮をしていた鈴木警備課長に対し、警察側が構外に退くならば、組合側の者も庁舎から退去する旨の提案をして拒否された事実、並びに、本件の全証拠によつても本件当時被告人崇本らを職安所長室から排除しただけでは庁舎の平穏を維持できなかつたと認めるに足りる証拠のないことを合わせ考えれば、太田所長は被告人崇本らが所長室に入り、同所長と話合いをした当初から、組合側の要望を容れる考えがなかつたばかりでなく、四項目あるいは五項目の反対提案をし、交渉がまとまらくなつた場合には、交渉を一方的に打ち切り、被告人崇本ら組合側役員が居すわるような場合には警察力をもつてこれに打撃を与えようと意図していたものと推測するのにそう困難ではない。
そもそも、国民の権利利益に影響をおよぼす公務に従事する公務員たるものは、自ら国民の公僕であることを常に心掛け、その有する権限の行使については、客観的に不公正不公平が疑われるいわれがないように十分に注意すべきであつて、仮にも、自ら有する権限を本来当該権限が与えられた趣旨、目的を超えて、他の目的のために利用することは許されないものといわなければならない。この意味で行政は、その任に当たる者において、主観的に法令に従い、通達に則つて行なうだけでは十分でなく、与えられた権限の範囲内で許された裁量権を行使する場合においても、その裁量権の行使は、常に客観的に公平公正が確保されるよう行なわなければならない。そして国民は右のような不公正不公平な権限の行使については、これが形式的に法令に基づくということだけで、その有する利益の侵害を甘受しなければならないものではない。さらに、行政が許された裁量の範囲内で関係者との協議によつて行なわれることはなんら法令に違反するものではなく、このような慣用がある場合、行政庁は一方的に右慣行に基づく当事者の利益をはく奪することは許されないといわなければならない。これは社会生活における信義則の要請するところである。
しかるに本件において、太田所長は、前述のように竹平前所長時代の職安と組合の慣行を嫌悪し、組合の要望として事業主体から申入れのあつた非番日の振り替えと翌月からの非番日の変更を、前述のような理由を付し、前述のような意図の下に拒否したうえ、さらに事態の紛糾を予想しながら交渉のルール四項目の提案をあえて行ない、交渉がまとまらないとみるやこれを打ち切つて、被告人崇本らに退去命令を発している。被告人崇本ら組合側の役員が夕張職安に出向き、所長室に入室して前述のような問題について、太田所長と交渉した意図は、前認定のように非番日振り替えの問題を契機に職安に対し、組合側が主導的な立場を確立しようと意図したものであつたことは明らかであるが、当時問題とした非番日の振り替え、設定の問題は、被告人ら失対労働者の労働条件に関する問題であり、これが事業主体に対して団体交渉事項であることは明らかであるのに、前述のように失対事業の特殊性から事業主体と職安の協議によつて決められるよう運用されているわけであるから、この限度で職安所長が事業主体と一体となつて団体交渉の相手方となりうる場合であると言えるのであつて、組合側の太田所長に対する要望、申入れ自体は、労動組合として当然のことであり、これをもつて不当な目的ということはできない。(ちなみに、失対労働者の団交権について当裁判所は次のように考える。失対事業は、労動する意思と能力を有しながら民間企業その他の常傭的な労働市場からしめ出され就労の機会を失い生活の資を断たれて困窮した状態にある失業者の生活の安定を図るため、国がこれら失業者に就労の場を提供することをねらいとして制定した緊急失業対策法に基づき実施されているもので、それ自体は国が行なう社会福祉政策の一環をなすものである。しかし同じ政策目的を有する生活保護法、各種社会保険法等の規定を根拠に支給される金銭その他の物と異なり、失対事業に就労する労働者に支払われる金銭は労働の対価としての賃金にほかならず、また、かかる労働者は右賃金を唯一の生計の資としていることに疑いはないから、憲法二八条が労働権の荷い手として予定した「勤労者」の中に含まれることは当然である。しかも、かかる労働者と事業主体たる(国又は)地方公共団体との関係は、失対事業の実施の必要から職安を通じ右事業の就労者として紹介を受けた者を対象に締結される一日を単位とする雇傭契約により発生し、かつその限度で消滅するものであるが、職安に失対事業就労適格者として登録されている者に関しては、当該失対事業が継続する限り雇傭契約も継続的又は断続的に反復更新され、原則として、一箇月に二十数日間の就労が暗黙のうちに予定されているのであるから、実質的に見れば、事業主体と失対事業就労適格者との間には継続的な労使関係、すなわち使用者対被使用者という関係が存在するのであつて、憲法二八条の趣旨からすれば、失対事業就労適格者は少なくとも事業主体に対する関係では団体交渉権を有することは承認されなければならない。現に、本件の夕張市においては、夕張市失業対策事業運営管理規程の中に、右適格者たる労働者の代表と団体交渉をもつことを前提とする規定(同規程二三条五号)があるばかりではなく、この数年来定期的に団体交渉が行なわれているのである。
そこで進んで職安に対する関係について検討するに、職安の本来的業務は、求職者に対しその者に適した職業を紹介することにあり、さらには、労働省の地方出先機関として(もつとも直接には都道府県知事の指揮監督を受ける。職業安定法七条、八条三項)労働力の需要供給に関する調査を行ない業務報告その他を通じて同省職業安定局へ、雇用および失業の状況に関する資料を常時提出する業務をも行なう(同法一三条一項、一四条)等国の労働行政の一翼を担つているが、職安そのものは、求職者と雇傭契約を結ぶものではなく、したがつて使用者対被使用者という関係のらち外にある第三者的地位にあるにすぎない。しかしながら失対事業は国の労働施策たる性格が極めて濃厚な事業であり、さればこそ、失対事業の一般的計画は労働大臣が樹立するものであり(緊急失業対策法六条)、さらには、形式的な雇傭契約が事業主体たる地方公共団体と労働者との間で結ばれる関係にありながらその賃金額は労働大臣が決定権限を有する(同法一〇条の二、一項)他、労働大臣は、事業主体に対し、失対事業の実施に関し必要な指導又は調整の権限を有し(同法一六条の三)、さらにその権限を実効あらしめるため特定の場合には、事業主体に対し、失対事業の全部又は一部の停止、若しくは国庫補助金の返還を命ずる権限すらある(同法一九条)のである。したがつて、労働行政推進の最先端にある職安も、こと失対事業の領域に関する限りでは単なる紹介機関を超えた性格を付与されており、少なくも次の点は指摘することができる。すなわち、労働大臣が失対事業に就労する労働者の賃金額を決定しようとする場合、同一地域における類似の作業に従事する労働者に支払われる賃金を考慮し、地域別に、作業内容に応じて定める(同法一〇条の二、二項)とされ、また、労働大臣が失対事業計画を樹立するのであるから当該地域の失対事業に吸収すべき失業者の数、就労日数等も当然その中で一定のわくづけがなされるのである(同法六条、同法施行令一条、同法施行規則一条、三条等)。その際当該地域の失業情況の調査が先行しなければならない(同法六条)が、右各決定に当つて必要とされる資料等は、前記のとおり、各職安によつて提出されるものが重要な部分を占めるであろうことは容易に推測されるのである。加えて、失対事業に就労する労働者は一定の範囲の者を除き、職安の紹介する失業者でなければならない(同法一〇条一項)が、紹介を行なうためには、職安所長が指示した就職促進の措置を受け終つた者で、引き続き誠実かつ熱心に求識活動をしていることが要件とされ(同法二項。但し、一定の地域については幾分右要件が緩和されている。同条三項)、その認定は職安が行なうのであるから、職安が雇用の唯一の窓口であるばかりでなく、その要件審査の過程において就労紹介の停止又は取消の処分を行なうことも可能であり、その場合には、失対事業に就労する労働者にとつて停職解雇に等しい結果がもたらされること、職安は労働大臣が事業主体に対して有する指導又は調整の権限を、都道府県知事を中継して現実に行使する先端機関であるが、そのおよぼしうる権限の範囲が必ずしも明確でないので労使間で団体交渉等により合意を経た事項についてこれに介入して事実上変更せしめる余地が残されていること等がそれである。これらの事情にかんがみれば、職安は失対事業の実施に関しその固有の権限の行使自体によつて、あるいは事業主体の雇用主としての権限の一部が制限され労働大臣の権限事項に移されている反射的効果として、現場の労働条件を左右しうる重要な地位にあるということができ、したがつて、失対事業に就労する労働者が事業主体に対する関係において団体交渉権を有するとしながら、その反面職安に対しては団体交渉権の存在を全く否定するならば、かかる労働者に対しても労働権を保障している憲法の趣旨はほとんど無に帰するものといわざるを得ない。そうすれば限られた範囲ではあるが職安において、失対労働者の労働条件を左右できる限度において労働者は職安に対し団体交渉権を有すると解すべきである。)したがつて太田所長としては、組合から前述のような要望があつたからには、これに対して、誠意をもつて答えるべきで、事件当日の交渉の場においても組合側の要望の焦点がどこにあるかを十分に明らかにさせたうえで許された範囲において非番日の設定の変更について考慮すべきであつたというべきである。前述のような太田所長の非番日振り替え等の要望の拒否の態度、事件当日の交渉過程における交渉ルールの提案の意図等は同所長が職安行政の任に当たる者として、客観的にその権限の行使について不公正を疑わせるに十分であつて、このような不公正な権限の行使に基づき紛糾した事態に対し、太田所長は前述のような意図をもつて、その有する庁舎管理権に基づき被告人崇本らに退去を命じたもので、これは本来庁舎内における平穏と秩序の維持の要請から認められた権限の公正な行使ということは到底できない。そして、このような不公正違法な退去命令によつて、被告人崇本が退去義務を負うものと考えることはできないから、結局本件において、不退去罪は成立しないというべきである。
第四被告人小野の無罪について
(1) 前記第二の三(1)、(2)の各事実によれば、高山警部補および吉田巡査部長が被告人崇本を逮捕後、同被告人を同職安正門の外数メートルの位置(別紙添付の図面参照)に待機していた護送車へ連行しようとして、正門手前付近、さらに正門からこれを出て護送車後方へたどりつく間に、十ないし二十数名の組合員によつて進路をはばまれて押し返されたり、そのうちの四、五名程度の組合員から衣服にすがりつき腕を引つ張られる等の阻止活動を受けたのであるが、右活動を一体となつて行なつていた組合員の中に被告人小野が含まれていたことを認めるに十分な証拠はない。すなわち、証人垣添繁美の当公判廷における供述(以下垣添証言という。)、第一六回公判調書中証人今野征治の供述部分(以下今野証言という。)および、司法警察員菅原美紀生作成の「現場写真撮影について」と題する報告書添付の写真(以下菅原写真という。)、垣添繁美撮影の写真(以下垣添写真という。)によれば、当日小野被告人は額に「全日自労」と白く染め抜いた赤鉢巻を締め、青い作業服を着用し左腕に腕章をつけ長靴姿でいたこと、右服装は同被告人独持のものであつたから一般市民とはもちろん、他の組合員とも容易に識別しうると思われること、同被告人は高山らが前記のとおり被告人崇本を連行しようとしていた際終始警察の処置が組合活動に対する不当介入だとして抗議を続けておりその声自体も特徴のあるものであつたことが認められるから、仮に被告人小野が高山らの前記公務の遂行を阻止しようとしていた組合員の中に加わつていたのであれば、高山、吉田らも当然これに気付かないはずはないと思われるのに、高山、吉田の両名はもちろん、これを援護し組合員の排除を行なつていた他の警察官も誰一人として右事実を肯定する者がない。もつとも、当日記録係として現場に居合わせた村瀬巡査は、当公判廷において、「高山らを護送車の方へ近づけまいとして、組合の人達が同人らを一生懸命押しておりましたが、この時、小野書記長もその中に入つていました。」と供述しているが、同証言は後述するとおり到底信用できないし、同証人が引用する司法警察員小林孝太郎作成の「写真作成について」と題する報告書添付の写真(以下小林写真という。)中第六葉は、これに写つている被告人小野の位置、表情、身体の向き等を仔細に検討すると、これが阻止活動を行なつている時の状況を撮影したものとは認めがたい。
(2) さらに、証人村瀬は当公判廷において、「高山警部補と吉田巡査部長が委員長(被告人崇本)の腕をかかえ連行し、制服警官に誘導されながら、護送車の直後まできた時、小野書記長が組合宣伝カーの方から勢いをつけて走つてきて、丁度護送車の後部に取り付けられたスペアタイヤの付近で市民会館側に背を向けて立つていた警官へ、肩から突込むようにして体当りし、ほとんど同時に、きびすを返して宣伝カー方向へ逃げ去つた。体当りされた警察官はその瞬間振り返つたのでそれが今野巡査であることを確認した。自分が立つていた位置は、今野巡査から三メートル位離れた市民会館側の小高い所です。」と供述し、第一七回公判調書中証人佐藤章の供述部分(以下佐藤章証言という。)によると、同証人もほぼ右と一致した内容を供述している。また今野証言によると、「自分に護送車の後部ドアを固く握つてこれを開かせまいとしている一人の女組合員がいたので、これを排除しようとして護送車と平行に体勢をもつて行つたところ、いきなり誰かが体当りしてきました。すぐ振り返えみると赤い鉢巻をつけ青い作業服に白つぽいズボン姿の男が逃げて行くのが見えました。その時村瀬巡査がその男を指さして“小野書記長だ”と言つたので、先程宣伝カーのところでマイクを使つて市民にアッピールしていた小野書記長だということがすぐわかりました。」と供述する。
そこで、まず右の村瀬証言を検討してみるに、菅原写真ナンバー15および同写真を拡大したもの(以下これを写真Aと表示する。)には、左寄りの部分に被告人小野が護送車に斜に背を向けやや前傾した姿勢でもたれかかるようにして立つており、その左側には今野巡査が右斜前方へ顔を向け右肩を少し上げ、同写真の撮影者の方に背を向けて立つているが、同巡査の右肩やや下方に同被告人の左肩が接触しているように見える。さらに同被告人の右側に三人の制服警官、今野巡査の直前に同巡査と対面しで佐藤巡査部長がおり、図面がやや不鮮明であるが、右四名はいずれも同被告人の方へ顔を向け(垣添写真と対比するとこの点が明確である。)、そのうち同被告人の右斜後方の警官は両手を同被告人の方へ伸ばしていて一見すると同被告人を押え込んでいるように見えるが反面同被告人を外へ引き出そうとしているようにも受け取れる。ところで村瀬証言によれば、写真Aは、被告人小野が体当りした瞬間を撮影したものであり、同被告人は体当りすると同時に宣伝カーの方へ逃げ去つたというのであるが、別紙添付図面にあるように、組合宣伝カーが駐車していた位置は、護送車の左斜後方であるから、その方向から走つてきて体当りしたとすれば、写真Aに与つているような被告人小野の姿勢、体位の状況になるか、疑問がありまた、同被告人が写真Aに写つている状態から反射的に再び宣伝カーの方向へ走り去るには、同被告人の右斜後方の制服警官の存在が障害になることは明らかであるから、写真Aが示す状況からみると、右村瀬証言はたやすく信用できない。この点では、垣添写真についても同様のことが言いうる。また、小林写真第七葉(これを写真Bと表示する。)を見ると、護送車後部のドアが開かれ何者かが正に乗車しようとしていること、その人物に対し高山、吉田らが腕を伸ばし押し上げるような姿勢でいることその他組合員、制服警官の位置関係および今野証言、佐藤章証言によると、写真Bは時間的にみて写真Aにある状況の直後を撮影したものと思われる。そして写真Bには被告人小野が護送車の左斜後方二、三メートルの位置で地面を指さして何か話している状態で写つている。村瀬証言では被告人小野が体当りし同時に宣伝カーの方向へ逃げ去つたのを目撃してから直ぐ被告人崇本を護送車に乗せるのを確認したと言つているが、被告人小野の右行動直後被告人崇本を護送車に乗せる時点で写されたとみられる写真Bに被告人小野が右述の状態で写つているということは右村瀬証言では説明しえないことである。また写真Bにある被告人小野に極めて近接した位置に既に援護の任務を終えた制服警官数名がいるにもかかわらず同人らは同被告人の存在を全く無視し問題にしていない。かかる状況は同被告人が今野巡査の背後から体当りするという一見して明白な公務執行妨害行為があつた直後の状態としては奇異な感じを与えるものであり、証人鈴木昭吾の当公判廷における供述、佐藤章証言によれば、本件当日における制服警官の任務は、逮捕の実行者(結果的には高山と吉田両名であるが、出勤当初は四名存在した。)の連行行為を援護し、かつ、その過程において公務執行を妨害する者があればこれを検挙することとされていたことが認められるが、本件全証拠を検討するも被告人小野を現に検挙しようとしたり、又は指揮者である鈴木警備課長に検挙の指揮をあおぐといつた行為に出る者がいたことは認められないのである。これら諸般の事情に照らすと、前記した村瀬証言は内容的にみてすこぶる疑わしいといわざるを得ない。
加えて、村瀬証言、垣添証言、被告人小野の当公判廷における供述によれば、村瀬巡査は、昭和二二、三年頃北炭夕張労動組合青年部に籍をおきその支部長をしていたこともあり、この間被告人小野と知り合つていたが、昭和二六年警察官に転職し、昭和二七年七月夕張警察署警備係員となりそれ以来同巡査は公安関係の情報収集活動に従事してきた。一方被告人小野は、昭和二二年四月北炭夕張炭鉱労動組合の書記、次いで常任執行委員、全石炭労働組合道本部執行委員等を歴任するうち、昭和二五年一〇月、いわゆるレッドパージで解雇され、その後行商等をして、昭和二八年一二月頃失対事業に就労するようになつた後も全日自労夕張支部、同道本部等の書記長、執行委員などを経て今日に至つている。ところで村瀬巡査は前記職務の遂行過程において、知合いの同被告人の協力を得るべくひそかに品物を持参してしばしばその自宅等に行く等陰険な形で同被告人に接近したところから、組合活動一筋に生きてきた同被告人の断固たる拒否に会つたばかりでなく極めて強い反感を買うところとなり、そのため同巡査はその後同被告人からことごとに職務活動の妨害やいやがらせ行為を受けるようになり、同巡査自身もまた同被告人を敵視し、時には警察力をかさにきて威圧的言辞をろうするようになつたが、本件当日も、夕張職安に出勤した同僚達にいちいち同被告人の名を告げてまわりその敵意を隠そうともしていなかつたことが認められる。このような敵対的関係にあつた同証人の証言は右関係自体からも信用するに足りないばかりでなく、同証人の証言は被告人小野の公務執行妨害の事実を裏づける重要なものであるにもかかわらず、捜査段階において一切調書がとられていないことを合わせ考えると、捜査機関自身も、また右のような被告人小野と特殊なえん恨関係にある同証人の言をそのまま信用していなかつたのではないかの疑いがもたれる。
次に佐藤章証言についてみるに、同証言は村瀬証言とおおむね共通するので村瀬証言について前述した疑問がそのまま当てはまるが、さらに、佐藤章証言によると、写真Aが体当りの瞬間を撮影したものであるとし、次の瞬間もと来た方向(組合宣伝カー方向)へ走り去つた旨述べ、体当りと逃げ去る間の時間は三秒や五秒という程長くはなく反射的であつたし、今野巡査の後方に他の制服警官がいなかつたとか、走り寄つてくる状態も短距離選手が走るようなダッシュのきき方であつたと証言している。これらの証言内容は明らかに写真Aや垣添写真が示している現場の状況に相反している。また同証言によると、「小野書記長は組合宣伝カーの付近から勢いよく走り出し、斜め一直線に私の方に向つて来て、私の前にいた今野巡査に突き当たつた」旨証言するが、体当りの直後の状況を撮影したと思われる写真Bには、組合宣伝カーと護送車とを結ぶ直線上にある高さ七、八〇センチメートル程の土盛りされた部分には一般市民がほとんどすき間なく立ち並んでいた状況が示されておるから、少なくとも「一直線」に走つてくることは、右写真の時間的誤差を考慮に入れても不可能に近い。かえつて、垣添証言によれば、被告人崇本が護送車に乗車させられる直前頃には、被告人小野は、制服警官およびこれと押し合う二十数名の組合員との一団とはやや離れて左右に移動しながら不当逮捕などと叫んでいたことが認められるのであるから、護送車から一七、八メートルも離れた組合宣伝カー付近から走つてきたとは考えられない。佐藤章証言もまた信用することができない。
今野証言についてみると、同証人は、「護送車付近まできたところ、後部ドアのところに組合員が二、三名おり、ドアのハンドルを握つたまま離れない状態でしたので、私はその者たちをよけようと護送車の後方左側部分のスペアタイヤのついているあたりまでゆき、その組合員(女の人でした)を離そうとしていた時、後からぐつと押され左肩がスペアタイヤにふれました。そして護送車と大体平行する形になつたのですが、その時斜め後方から私の右腕、右背中にいきなり人が体当りし、その瞬間痛みを感じ、すぐ振り返りましたところ、青い作業服を着て白つぽいズボンをはいている男が後ろ回きになつて市民会館の方へ逃げていくのが見えました。私から三メートル位のところです。その時特科班の村瀬巡査がその方を指さして小野書記長だといつていましたし、私も先ほど宣伝カーの所でマイクを使つて話していた小野書記長だということがわかりました。もうその頃には護送車のドアを握つていた女の組合員を誰かが排除しまして、丁度阿部委員長(被告人崇本)が車に乗せられるところでした。」と述べ、右体当りされるとき同証人は護送車の後部とびらの取つ手のところに東側の方に向き護送車に平行になる位置にあつた旨証言している。まず、今野証人は背後から二度押されたというのであるが、一回目のものが警察官によるものか組合員によるものかは明らかでないし、二回目に体当りされた際における同証人の向きは護送車の後部とびらの取つ手のところに、東側を向いて同車に「平行」になる状態でいたとのことであるが、若しそうだとすれば写真Aに写つているような形に同証人の体勢が移動するためには、同証人の左肩に外力が加わねばならないのにその時右腕、右背中に体当りされたと述べているところをみると、写真Aはむしろ同証人が一回目に押された時の状態を撮影したのではないかと考える余地もあるが、同証人は一回目の圧迫は全然体当りという風には感じていないのである。そうすると、被告人小野が体当りしたとされる動作が一瞬時のことであり、写真Aが激しく動きつつある状態の一コマを写したものである点を十分に考慮したとしても、なお右述のように今野証人が言つている体当りされる直前の同証人が立つていた位置、方角と同証人の言う体当りされたときの状況、これらと写真Aによつて認められる状況との間には合理的に説明がつかない矛盾が残ると言わざるをえず、いわゆる「体当り」と被告人小野との結びつきを認めることは困難である。その時今野証言はあいまいで不可解な部分が多いし、さらに今野巡査の司法警察員に対する供述調書二通と比較すると前後矛盾した供述が散見されるから、結局、同証言も信用することはできない。
なお、垣添証人は、「本件当日、たまたまカメラを携帯して、写真コンテストに応募するに適した素材を捜しながら散歩しているうち、夕張職安前で、既に認定したような騒ぎに遭遇したため、ほとんど反射的にその場面を数枚撮影したのであるが、シャッターを切つている間、かねて面識のある被告人小野が自分の右横で警官隊に対し、被告人崇本を逮捕したことについて抗議していた。そのうち制服警官らの一団が護送車の方へ移動してきたので、自分は道路脇の土手の上にあがつて同じように時々シャッターを切つていたが、同被告人は土手へはあがらずなおもその下あたりで抗議を続けていたため、制服警官と肩が触れ合う位になり、その後巻き込まれるように右一団の中に入つてしまつた。」旨証言しており、その前後の状況について、被告人小野は当公判廷において、「自分は警官隊に抗議していた時、後から誰かに押されるか突き飛ばされるかして、前にいる者にぶつかりその場にひつくり返つたが、すぐ起き上り又抗議を続けた。」旨供述する。右被告人の供述は写真に写されている同被告人の仕草や、右今野証言にある、背中を圧迫された事実(第一回目)にそう部分があるばかりでなく、垣添証言とも矛盾しないのでこれを一概に架空の事実として排斥することはできない。そうすると、写真Aおよび垣添写真に示されている被告人小野の動作が、果して自ら意図して突き当たつて行つた事実があることを意味するのか、はたまた、何らかの外力を加えられたため警官隊の背後に体勢をくずして倒れかかつていつたことを意味するのか、を一義的に認定することはできないし、他に同被告人が自ら意図して、今野巡査に突き当つたことを認めるに足りる決定的な証拠もない。
(3) 最後に、他の二十数名の組合員が、高山、吉田らにおいて、被告人崇本を護送車に連行しようとした際、これを阻止するため正門付近で進路に立ちふさがり押し合うなどして右両名の公務の執行を妨害し、被告人小野がこれら組合員と右犯罪行為を共謀した事実があつたか否かを検討する。既に認定したように、夕張署警察官が夕張職安に到着してから被告人崇本が現実に逮捕されるまで二十数分の時間が経過しでおり、この間同職安正門付近および構外の道路上、市民会館ホール付近等に四〇名程の組合員がいて同職安所長室でのなりゆきを見守つていたのであるが、組合書記長の地位にあつた被告人小野としては、被告人崇本が逮捕連行されることはある程度予測できたはずであるから、仮に被告人小野がこれを阻止する意思があつたのであれば、右の時間中に配下の組合員らに指示し、それ相当の阻止体勢を組みえたと思われるのに、本件全証拠によるも、同被告人がかかる行動に出たことをうかがわしめるものはない。しかも、被告人崇本を逮捕した高山、吉田両名が、同被告人を連行して職安正門へ向つた際、これを取りかこんだり進路に立ちふさがつて押し合つたりした組合員はせいぜい十ないし二十数名にすぎず、その半数以上は女性であり、ほとんどの者が高年令者であつたのであるから阻止活動としてもそれ程強力であつたとは思えない(せいぜい数分間の遅延を生ぜしめる程度のものにすぎなかつたことは前記認定事実から明らかである。)。加えて高山らの進行に抵抗していた組合員は被告人崇本や地区労議長らの制止をもきけない程の興奮状態にあつたこと、証人伊東直記、被告人小野の当公判廷における各供述によれば、援護に当つていた制服警官らが組合員の排除活動を続けながら、口々に公務執行妨害になる旨警告し、彼等の逮捕をも辞さない態度でいることを見て被告人小野を含めた男の組合員らが「警察のちよう発にのるな。」等叫んでいたことが認められること等を考慮すると高山らおよび護衛の制服警官隊と押し合い抵抗を続けていた十ないし二十数名の組合員らは、事前の意思連絡はなく、高山、吉田両名に連行されてゆく被告人崇本の姿を見て、はじめて、いわば自然発生的に詳がり集り高山らに抗議をしているうちに感情にかられて反撃的態度に出たものにすぎないと認めるのが相当である。したがつて、被告人小野が、右組合員と暗黙にせよ犯罪的意思を互に通じ合つていたとはとうてい解し得ないところである。
第五結論
以上説示したとおりであつて、被告人崇本の不退去行為は罪とならず、被告人小野については、その犯罪の証明がなかかつたものというべきであるから無罪の言渡しをすることとし、それぞれ刑事訴訟法三三六条を適用して主文のとおり判決する。
(浜秀和 梅原成昭 田中宏)